宮台、
お前の述べてきたことは若者がおのずと気づいてやるものである。
それをお前は声高に言うと周りのそれを聞くバカな大人が反応する。
つまりお前は若者の気づきの為の小粒の石になるつもりがあるのか
それとも若者の延長上にあるバカと同じやつになるのかっていう、
まあ、だから俺が言いたいことは宮台が認めない軟弱な弱酸性の現代の若者は環境性の産物であり、
その環境はやや自然発生的な天然自然の大河に近い。
いつの時代であっても若者および若者に限らず全人類には自我があり、
その自我や個我といったものは各人が置かれている環境に対して自尊心を現してきた。
だからといって人間世間は人がいるコミュニティであるから
そのなかで発達したものとそうでないものがいる。
貴賤を制せず卑しからずやというのが島国国家の日本国の底流であろう。
しかし現代平和な池袋では『おもしれえことがないのか』とか言いまわって歩き回る酒癖の悪い者がいたりする。
つまり宮台は幸福な現代平和な日本に於いて旧オウム真理教のサリン事件のような一撃を社会に与えたらいいとでも思っているのだろうか。(サリン事件の真相は広く社会に対する鉄槌的な意味ではなく教団規模の社会的野心に於けるごく限定的な視野での霞ヶ関高官へのテロアタックであるから世直し的な広く社会への鉄槌ではないと言われている)
ま、だから『今どき』っていうのはその対象は人なんだけれども
実際は環境に対して文句を言ってねって事であり、
その環境が小流なのか大流なのかって事を分けた場合、
大流という自然現象に対して文句言ってもおかしくねかってこと。
じゃあ1、大流ってのは個人で変えられるのか、
もしくは2、広く社会に対して影響力のある個人で変えていいものなのかって事を
考えるべきだと思うんだよなあ。
前者は悪いけど意味がない。
後者は大衆の大半のバカのセルフイメージを操作するだけのことむけやわしだって事。
宮台真司の言う事で芯を得ているのは
おそらく全時代的にあくまでおそらく人的感情論が必要だということであって
それ以外の例えば『昔はこうだった』というのは
『ちっげーだろ昔もバカな奴はバカだったんだよ!』と。
あとは大学の左翼闘争とか環境的なスパイスがあって実はバカでも賢く見えてたんだろう?
ってことなんだよなあ。
たぶんバカの比率は変わっていない。
いいかげん懐古厨を辞めて、
真実の世界に入ろうや。